中村照夫はとてつもなくパワフルな男である。
ベーシストとして一流であるだけでなく、レコード・プロデューサーとしてコンサートやジャズ祭のプロデューサーとしての実行力がすごいのだ。ちょっと日本人ばなれしている。
彼は日本大学芸術学部で学んだあと、無名のまま'64年の5月に単身ニューヨークに渡り、アルバイトしながらニューヨークのジャズ・シーンにもぐり込み、いつの間にか一流のベーシスト、バンド・リーダーとして、ニューヨーク・ジャズの一角を占める存在になったのだ。
ぼくがニューヨークで彼と出合ったのは、'70年代のはじめだった。
ライジング・サン・バンドをひきいて有名な“ボトム・ライン”や“セブンス・アヴェニュー・サウス”に出演していた。
彼のライブはいつもニューヨークっ子で一杯だった。彼のバンドの演奏はすっかりニューヨークに根づいていたのに驚いた。早速彼の活躍ぶりを日本の雑誌にリポートしたが、彼のレコードが発売されると、アメリカのFM局ですぐさまベスト10入りした。
そして彼のバンドからはボブ・ミンツァー、バリー・フィナティなど多くのミュージシャンが育った。
そして彼のもとにはいつも沢山の優秀なジャズメンが集ってきた。
そこで彼はチータ・カンパニーを立ち上げ、彼らをつぎつぎに世に送り出した。
彼がプロデュースしたアルバムは50枚を超えるが、彼の嗅覚は鋭い。
数おおくの新人や知られざる才能を発掘した。
そして、今回ポニー・キャニオンを通して日本で本格的にチータ・レーベルをスタートさせることになった。
その第一作「プレイド・ライト / ビル・ウェア」にはプロデューサ―、中村照夫のクラブ・ジャズもふまえた、これからのジャズともいうべき新しくて魅力的なサウンドが躍動しており、中村照夫のセンスを通して、ニューヨーク・ジャズのエッセンスをダイレクトに日本に伝えてくれている。
これからリリースされる作品群がますます楽しみになってきた。
中村照夫はまたエイズ・アウェアネス・コンサートを日本で10回以上行ってきたが、その都度ひきいて行ったバンドの演奏がニューヨークのハーレムのグルーヴィーな響きに満ちていて素敵だった。
そこに優秀なトランペッタ―、トム・ブラウンがいたこともあった。
彼のアルバムは近く制作する予定のようだが、中村照夫自身のニューヨーク・サウンドのバンドも早く聴きたいものだ。
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